◎海幸山幸◎
 あふれる陽光と日南海岸の青い海を臨む断崖上の洞窟内に朱色も鮮やかにたたずむのが鵜戸神宮です。
「ウド」とは空(うつ)・洞(うろ)に通じる呼称で、内部が空洞になった場所を意味し、主祭神である日古波草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)の「」が鵜を意味するのに因んで「鵜戸」の字を充てています。
 草葺不合尊は、海幸山幸の神話で有名な山幸彦(彦火火出見尊)の御子で、次のように伝えられています。

 その昔、わが国の祖神・天照大御神の曾孫にあたる海幸彦・山幸彦の兄弟がいました。兄の海幸彦は海の幸を、弟の山幸彦は山の幸を得て暮らしていました。ある日、お互いの幸を取り換えることになりますが、山幸彦は兄から借りた釣針を無くしてしまいます。しかし幸いに山幸彦は海神の宮殿に赴いて釣針を取り戻し、さらに海神の娘である豊玉姫命と結ばれます。やがて豊玉姫命は身篭られますが、天孫の御子を海中で出産することはできないとして日南海岸のウドの地をお選びになられ産屋を建てられます。しかし屋根を鵜の羽で葺き終わらないうちにお生まれになられたので、御子は「草葺不合尊」と命名されました。

 その後、御子は玉依姫命と結婚し、神日本盤余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)をお生みになられます。そのお方こそ初代天皇でいらっしゃる神武天皇です。

 
◎創祀◎

 鵜戸神宮の創祀は第十代崇神天皇の御世と伝えられています。その後延暦元年(782)に天台宗の僧・光喜坊快久が勅命により社殿を整備し寺院を建立、「鵜戸山大権現吾平山仁王護国寺(うどさんだいごんげんあひらさんにんのうごこくじ)」の勅額を賜りました。当時は神道と仏教が結びついた神仏習合という思想が一般的で、神社で読経を行ったり、寺院の僧侶が神社を管理するようなことが一般的におこなわれていました。鵜戸神宮も神仏習合の神社で、のちに真言宗に改宗し「西の高野」と讃えられて盛観を極めました。

 明治の神仏分離によって仏教色が廃されて鵜戸神社となり、その後、官幣大社鵜戸神宮に昇格されました。現在でも日本民族の祖神誕生の聖地として多くの参拝者で賑っています。

  
◎御神徳◎
 鵜戸神宮は古くより縁結び・子育ての神様として信仰を集め「鵜戸さん」の愛称で親しまれてきました。次にその一例としてシャンシャン馬道中と御乳岩についてご紹介しましょう。

シャンシャン馬道中
 鵜戸神宮には元禄時代頃より新婚夫婦による参拝の風習があり、馬の首に付けた鈴の音からシャンシャン馬道中と呼ばれています。かつては盛装した花嫁を馬に乗せて手綱を曳く花婿の列が数珠繋ぎになって続いたといわれますが、現在では三月末の日曜日にその再現が行われて往時を偲ばせてくれます。またかつての日南海岸は新婚夫婦の三割強が訪れる新婚旅行のメッカとしても賑わい、多くの新婚カップルが鵜戸神宮を訪れました。

お乳岩
 鵜戸神宮が鎮まる洞窟内には乳房を思わせる二つの突起があり、お乳岩として信仰されています。これは豊玉姫命の残された乳房とされ、古来そこから滴る雫を集めて飴を練り「お乳飴」として授与しています。その絶え間なく流れ落ちる清水は母親たちの信仰のよりどころとなっています。