五代横綱

小野川喜三郎
 

 横綱力士碑の傍らに建てられている超五十連勝力士碑。その初めに刻まれているのが四代横綱・谷風の63連勝です。この記録は昭和になってから双葉山の69連勝まで約150年も破られなかった偉業でした。
 この連勝記録を小股掬いの奇手で止めたのが当時十両だった小野川喜三郎です。

谷風は負けた負けたと小野川がかつをよりねの高いとり沙汰

 これは太田蜀山人がこの一番を詠んだ狂歌です。その後、谷風は43連勝を重ねましたのでこの一敗が無ければ日本相撲史上不滅の大記録となっていたでしょう。またこの勝利で小野川が一躍天下に名を上げたのは勿論です。

 小野川(本名・川村喜三郎)は近江国大津宿坂井川に生まれ、始めは上方で相撲を取っていましたが、後に江戸へ下り八歳年上の谷風と名勝負を繰り広げました。やがて寛政元年(1789)谷風と共に横綱免許を許され、寛政期の相撲黄金時代を築きました。

 ライバル谷風との対戦は安永九年(1780)に始まり、寛政五年まで17戦3勝6敗3分2預3無勝負と熱戦が繰り広げられました。天明三年九月の大阪での興行では四度の水が入り、四本柱(勝負審査役)も見かねて引き分けを宣したという話が伝わっています。
 その体格は谷風と比べて小さいが、やわらかい足腰と敏捷な動きで、10年半22場所、優勝7回の実績を残しました。そして、40歳で肩を痛めて引退すると江戸年寄小野川才助として生涯を終えました。
 小野川はもともと上方力士だったので京大阪では谷風を上回る人気でしたが、江戸では谷風、雷電の脇役に回ることが多く、「史上最強のナンバー2」とも評される所以です。
 また、意外な所では有馬猫騒動の中で有馬家お抱え力士小野川が仲間の藩士と協力して化猫を退治するという話が伝えられ、河竹黙阿弥はこれを題材にして歌舞伎「有松染相撲浴衣」を作りました。