今や、様々な商業施設が立並び、公園等も整備され、都内有数の観光地として賑わっているお台場ですが、もともとは、東京湾防衛の為に築いた砲台跡地です。
嘉永6年(1853)6月米国東インド艦隊司令長官ペリー率いる黒船が開国を求め浦賀に来航しました。この事件に江戸幕府は、海防強化の必要を感じ、以前より海防について上申していた伊豆韮山代官・江川英龍に命じ、洋式の海上砲台を建設させました。同年8月には、第一から第三台場を着工、翌年7月に完成。その後、第五・第六が完成、第七台場(未完成)まで着手しました。完成した台場の防衛は江戸湾の海防を担当していた川越藩・会津藩・忍藩が当たりました。
当初は南品川の漁師町から深川洲崎にかけて11基並べる計画でしたが、財政難や「日米和親条約」締結により開国へと向かう中、必要性がなくなり、砲台として一度も使用されないまま明治の世を迎えました。
明治8年(1875)海上七つの台場は陸軍省の所管になりました。以後明治中期になると、東京湾要塞の建設が始まり台場の重要性がなくなり、徐々に払い下げになりました。
大正4年(1915)第三・第六台場が史跡公園として整備され、昭和3年(1928)第三台場が「台場公園」として市民に開放されました。
その後、東京港の開港に伴い船舶が増加、航路を塞ぐ第二台場が撤去され、その他の台場も埋立地に埋没し、整備された第三・第六台場以外は全てなくなりました。
現在、第三台場は前述のように公園として開放され、人々の憩いの場として活用されています。所々に見える旧跡もありますので、皆様、ぜひ足をお運び下さい。
|