渋沢栄一宅跡

江東区永代2‐37

 

 現在の我が国における多種多様な企業の創立・経営に携わり、日本資本主義の父と云われる渋沢栄一は江東区と大変縁のある人物です。

 渋沢栄一は天保11年(1840)武蔵国榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市)の豪農の家に生まれました。
 文久元年(1861)江戸に出て儒学や剣術を学び、やがて勤皇志士と交友を持って、尊王攘夷思想に目覚めました。その後、江戸遊学の折に交際のあった一橋家臣・平岡円四郎の推挙により一橋慶喜に仕え、慶喜が将軍となるに伴って幕臣となり、パリの万国博覧会の随員として渡航。将校と商人が対等に交わる社会を見て感銘を受けました。

 大政奉還により帰国、新政府の大蔵省に出仕しましたが、明治6年(1873)予算編成を巡り対立して退官しました。その後は実業界に転じ、金融・産業・運輸など様々な分野にて近代企業の確立に力をそそぎ、第一国立銀行や大阪紡績会社をはじめ多くの会社を設立しました。

 明治9年深川福住町(現永代二)の屋敷を購入し、修繕して本邸としますが、明治21年には中央区兜町に本邸が移されたため、深川邸は別邸として利用されました。
 明治22年から37年まで深川区会議員および区会議長を勤め深川の発展のため尽力。明治30年には当地に渋沢倉庫部(現澁澤倉庫)を創業しました。
 また明治44年の富岡八幡宮大修繕は、栄一が実行会長として進めたもので極彩色の社殿を見事に蘇らせました。

 さらに社会活動にも熱心だった栄一は、日本赤十字の設立などにも携わり、関東大震災の際には復興のために大きく貢献しました。
 この度の大震災復興においても渋沢栄一のような政財界を纏められるようなリーダーが必要なのではないでしょうか。