江戸劇界最大の役者であった七世市川團十郎は深川島田町(木場2丁目)に豪邸を構えていました。
七世市川團十郎は寛政3年(1791)、五世團十郎の次女すみの子として生まれ、生後間もなく六世團十郎の養子となりました。寛政6年に新之助を名のり初舞台を踏み、2年後には6歳にして「暫」を演じました。
寛政11年に6代目が急逝したため、翌12年に10歳で團十郎の大名跡を襲名。文化3年(1806)に、祖父の五世が没しますが、並み居る名優に囲まれて芸を磨き芸域を広げていきました。
芸風としては「荒事(豪快で力強い芸)」をよくするほか、四世鶴屋南北の『東海道四谷怪談』の民谷伊右衛門に代表される「色悪(二枚目の敵役)」という役どころも確立しました。
天保3年(1832)息子に八世を襲名させ、自分は五世海老蔵となり、同時に成田屋相伝の荒事の内から「歌舞伎十八番」を制定しました。これが、最も得意とする芸や技である「十八番(おはこ)」の語源とも言われています。
天保13年贅沢を禁じる天保の改革により、手鎖・家主預りの処分を受け、さらには江戸十里四方追放の刑に処せられました。
江戸を追放された七代目は、一時成田山新勝寺延命院に寓居、その後、大坂に移り住み、京・大津・桑名などの芝居にも出演しました。
嘉永2年(1849)の特赦により、翌年江戸に戻りますが、その後も何度か旅興業を行いました。
安政6年(1859)中村座で『根元草摺引(こんげんくさずりびき)』の曽我五郎を演じたのを最後に、同年3月23日、享年69歳にて没しました。
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