「石山の石より白し秋の風」

 『奥の細道』にこの句を記した松尾芭蕉は現在の江東区常盤1丁目、万年橋のたもとに芭蕉庵を構えて創作活動の中心としたところから、深川には俳句史跡が点在し、当神社に所縁の俳人が大勢います。芭蕉誕生360年を迎えた今年、深川俳諧の足跡を少したどってみたいと思います。
 御本殿東側に建つ合末社のうちに「花本社」があり、御祭神は松尾芭蕉命です。このお社は享保年間(1789〜1800)に江戸の俳諧師有志によって建立されたものです。芭蕉は37才の時に日本橋小田原町(現・中央区日本橋室町)から郊外深川へ転居します。このことが、都市の言葉遊びの域を出なかった当時の俳諧から、定型詩としての俳諧、自然と人間とを見つめる俳句誕生のきっかけとなったと考えられています。
 芭蕉の深川転居から自然、彼の門人が深川近辺に集うようになり、深川は文学・俳句の揺籃の地ともなったのです。芭蕉の門人のうち、ことに深川と縁が深いのは杉山杉風、宝井其角、度会園女でしょう。
 芭蕉古参の弟子である杉風は深川に別邸を構え、そこの生簀の番小屋を改装したのが最初の芭蕉庵です。芭蕉が『奥の細道』の旅へ出発した採荼庵(現・三好1丁目〜深川1丁目付近)も杉風別邸の1つでした。

  菊畑おくある霧のくもり哉  杉風


 宝井其角は蕉門第一の弟子といわれる俳人です。師の芭蕉が静寂な自然を好んで題材としたのに対し、其角は大都会・江戸の情緒を好みました。彼の作品は発展の一途をたどる江戸のありのままの姿を映しています。ぴりりと洒落た作風は深川好みとも言えましょう。

  鐘一つ売れぬ日はなし江戸の春  其角


 度会園女は蕉門の女流俳人。伊勢山田の出身ですが大阪に住み、元禄7年9月に芭蕉を迎えて連句会を催しました。

  白菊の目に立てて見る塵もなし  芭蕉

  紅葉に水を流す朝月  園女


 この句会からわずか半月後に芭蕉は世を去り、俳聖最後の句会となりました。医師であった夫の没後、園女は江戸へ出て当神社門前で眼科医を営み、境内に36本の桜を寄進しました。これは「歌仙桜」と呼ばれ、江戸の人々に親しまれましたが、残念ながら残っていません。今は深川公園内に歌仙桜の碑があります。
 また、現在は失われましたが八幡宮境内に其角の弟子、稲津祇空を祀った「祇敬霊神祠」があり、往時は功勝社とも呼ばれていたようです。祇空は摂津池田の人で八幡宮の氏子である箱崎町に住み、師・其角の華やかな作風とは異なった、芭蕉に似た穏健平明な俳風を立てました。その生涯も旅を愛し、芭蕉を思わせます。祇空は神職の家系に生まれ、敬神の念篤い誠実な人柄だったらしく、この小祠も彼を慕った門人達が三周忌にあたり建立したようです。今はこの小祠の来歴を記した碑だけが永昌五社稲荷近くに残っています。

  名月や十二のそらに海ひとつ  祇空


 このほか、境内弁天池周辺には大橋杣男、蒲丈、完来、平花庵雨什の句碑があります。彼らもまた芭蕉の所縁を慕ったのかもしれません。
 今や英語俳句なども生まれ、もっとも短い定型詩として世界中に愛好者がいる俳句。文学の秋、日本発祥の俳句に身近な感動を詠んでみてはいかがでしょう。