二代横綱 綾川五郎次    

 二代横綱とされる綾川五郎次ですが、初代の明石、三代の丸山と共に事跡が不明とされる横綱です。
 数少ない伝記によると、少年時代より強力(ごうりき)で名を知られ地元で相撲を志し、江戸からの本職相撲団との興行において大関黒雲惣太郎(くろくもそうたろう)と好勝負を演じることにより、弟子に乞われて江戸へ。
 やがて三千石の旗本渋谷家に抱えられ、元文年中には東西に匹敵する者のない強豪力士となったと伝えられます。
 また吉田司家文書には「享保年中江戸 綾川五郎次」として「※故実門人(こじつもんじん)」を許した旨のメモがあり、寛保三年五月と延享元年五月の京都番付に「関脇」としてその名が見られます。
 天明五年に出た『相撲今昔物語』(子明山人著)に「相撲はまず名人なり。三ヶ津(さんがつ)(京・大阪・江戸)にて殊のほか人うけよき性質にて、土俵に上りにこにこ笑い、ひいき多き力士なり」とあり人気力士であったことが窺えます。

 史跡としては栃木市の太平山神社の石段の途中に少年時代の彼が受け止めたと云われる「綾川の力石」や、大宮市の薬師寺堂境内に当地で興行を行った際、大変な人気だったことに感謝して寄進したとされる「綾川地蔵」という小さな地蔵が残されています。
 この綾川を二代横綱とするにあたっては横綱力士碑建立にあたって発起人である陣幕久五郎が独自に研究、人選をしたようですが、石碑建立の後に議論となりました。その中でも二代目の綾川に疑惑が集中したようです。そんな中、当の陣幕が亡くなり議論はうやむやになり、調査不十分の過程で、石碑に刻まれたものが現在そのまま公認されています。
なにしろ横綱の制度が整う前の時代ですから、何を正しいかを決めるのは難しい問題です。いずれにしても綾川五郎次という人気力士が江戸時代の相撲史を彩ったことは間違いありません。

※故実門人 吉田司家が相撲界の功労者を門弟にしたという証