伊能忠敬の銅像  当宮に建立決定!
 日本全国を測量したことで知られる伊能忠敬の銅像が、縁深い当宮に建立されることとなりました。都内に忠敬の銅像が建つのは初めてのことです。測量開始から200年の今、その生き方が注目される忠敬の足跡と功績を、渡辺一郎氏より特別に寄稿頂きました。
 
伊能忠敬銅像建立にあたって

伊能忠敬銅像建立実行委員会
事務局長  渡辺一郎
(伊能忠敬研究会  代表理事)

 
 深川の富岡八幡宮大鳥居の傍らに、近代日本地図の祖である伊能忠敬先生の銅像が建ちます。忠敬先生は近くの黒江町(現在は門前仲町1丁目)に隠宅を構えていましたが、約200年前の寛政12年4月19日(陽暦では1800年6月11日)の早朝に富岡八幡宮に参拝して暇夷地(北海道)測量の旅に出かけました。
 銅像は、背景の大きな黒御影石に刻まれた伊能日本図のあとに、55歳の忠敬先生が、杖先方位盤を手に力強く測量への第一歩を踏み出した姿です。

 忠敬先生はこのときを含めて全部で10回の測量旅行を企画しましたが、遠国に出かけた第8回までは、出発の都度必ず、内弟子と従者を率いて富岡八幡宮に参詣して、無事成功を祈念したのち、千住、品川宿など測量開始地点に向かって歩き出しました。富岡八幡宮は伊能測量にとってたいへん御縁の深い場所であります。
 伊能測量開始200年にあたり、忠敬先生の測った道約11,030キロをたどり、2年間かけて、徒歩で全都道府県を踏破した「伊能ウォーク」も江戸東京博物館の出発式のあと、八幡宮に参拝してお祓いをうけ、無事を祈念して出発しました。

 忠敬先生の制作した日本図が非常に正確なものであったことは今日ではよく知られていますが、あまり知られていないことがあります。
 忠敬先生の日本図は幕府に提出されたときは公開されませんでしたが、50年後の明治維新以降は、明治政府に引き継がれて、近代地図の原図として尊重され、大々的に利用されました。ごく一部ではありますが、100年後の昭和の初めまで命脈を保った部分もありました。伊能測量はまさに、次世代のための大仕事でした。いまの世の中の人たちに大いに参考にして欲しいことです。
 しかも、この大仕事は、佐原の商家の主人として事業に成功したあと、49歳で隠居して江戸に出てから本格的に勉強して、始められたものでした。中高年に元気を与えてくれるお話です。

 八幡宮の近くには忠敬先生の隠居跡、地図御用所跡、暦局跡などゆかりの場所があり、緯度1分の距離を歩測した道筋も分かっています。この銅像が、忠敬先生の名前を広め、先生を正しく理解していただくための基点となることを願っております。忠敬先生関連のイベントの拠点としての活用も考えられています。
 制作は彫刻家・酒井道久氏、監修は伊能忠敬から七代の子孫で洋画家の伊能洋氏です。
 また銅像の隣に国土地理院で新地球座標系による国家基準点(二等三角点)を設置します。銅像は測量の基準としても利用できる生きたモニュメン卜となるでしょう。


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