< 神社紹介 >

      あかまじんぐう
   赤間神宮
   山口県下関市
 
◎安徳天皇◎
 赤間神宮の御祭神は安徳天皇(第81代)です。安徳天皇は高倉天皇と平清盛の娘・徳子の間にお生まれになられ、治承四年(1180)に僅か二歳で即位なされました。当時は平家が政治の実権を握っていましたが、祖父である清盛の死後、情勢は源氏に有利となり源義仲の入京によって平家一門は幼い安徳天皇を伴って西国へ都落ちします。そして寿永四年(1185)、平家は壇ノ浦において源義経の軍に敗北。安徳天皇並びに平家一門は入水して壇ノ浦に果てるのです。この時、清盛の妻で祖母にあたる平時子は
  いまぞ知るみもすそ川のおんながれ
  波の下にも都ありとは

と詠まれ、幼い天皇を抱かれ入水されました。安徳天皇、御寿八歳。歴代天皇の仲で最も短いお命です。

 
◎阿弥陀寺◎
 建久二年(1191)、阿弥陀寺が建立されます。阿弥陀寺は安徳天皇並びに壇ノ浦で滅びた平家一門の菩堤をとむらうために建立され、皇室の崇敬はもとより、関門の要衝に位置するため各界要人、また幕末には諸外国の来賓を多数迎えるなど国際的役割も果たしました。この阿弥陀寺が明治以降、神社に改められ、地名の赤間関(下関の古称)にちなんで赤間神宮となったのです。
 現在でも隣接する安徳天皇陵をはじめ境内には平知盛、教経、時子など平家一門の墓があり、また平家の亡霊に耳を奪われる怪談「耳なし芳一」の舞台でもあるなど、平家伝承の中心地として広く知られるところです。
 
◎水天門◎
 赤間神宮には水天門と称される竜宮様式の神門があります。昭和三十三年の竣工で、昭和天皇・香淳皇后両陛下により御通初め御参拝がなされました。この竜宮城を模した印象深い神門の由来は次の通りです。
 『平家物語』灌頂巻に寄れば、壇ノ浦の合戦後、安徳天皇の母・徳子は夢の中で、安徳天皇はじめ平家一門が威儀を正して居並ぶ姿を見ます。徳子がここは何処かと尋ねると平時子が「竜宮城」と答えたというのです。
 また明治天皇の妃である昭憲皇太后はこの地で次のように詠われました。
   いまも猶袖こそぬるれわたつみの
   龍のみやこのみゆき思えば
 
◎上臈参拝◎
 安徳天皇の御命日である五月二日から三日間に亘り、赤間神宮では先帝祭が行われます。上臈参拝行事はその中日である五月三日に行われるもので毎年多くの人出で賑わいます。
 壇ノ浦の戦いの際、平家の女官は赤間関在住の有志に助けられ、あるものは遊女となり、多くの苦労を重ねて生計を立てていきました。そして毎年安徳天皇の御命日になると御陵前にかつての衣装で威儀を正して拝礼したのです。これが上臈参拝の起源で、女官達が世を去った後も、赤間関の人々によって参拝は続けられました。
 現在の上臈参拝はその故事を伝えるもので、打掛に太鼓帯という絢爛豪華な上臈姿(遊女姿)の太夫が外八文字を踏みながら市内を歩み(上臈道中)、赤間神宮境内に掛けられた天橋という花道を渡ってご神前に参拝します(上臈参拝)。
上臈参拝は平家全盛の時代を蘇らせる一方で、女官等の悲しい運命を漂わせます。