四代横綱

谷風梶之助
 
わしが国さで見せたいものは、
むかし谷風、いま伊達模様…

と俚謡にまで歌いつがれた不世出の大横綱・谷風梶之助。
 これまでの事跡が明らかでない三横綱と異なり戦績や人物像もはっきりしており、五代横綱の小野川喜三郎と共に実質的な横綱第一号とされています。
 寛延三年八月八日、陸前国宮城郡霞目村(仙台市霞目)に生まれた谷風は幼少の頃から近隣に聞こえた怪童で、江戸に出ると明和六年(1769)四月伊達関(のち達ケ関)の四股名で看板大関として初土俵。しかし客寄せの看板大関を恥として前頭に降格し、谷風と名を改め真の実力大関となります。
 そして安永六年(1777)十月から天明二年(1782)二月まで土つかずで六十三連勝の大記録を達成。これは横綱力士碑の傍らに建てられている超五十連勝力士碑にも刻まれ顕彰されています。
 やがて寛政元年には好敵手であった小野川喜三郎と共に吉田司家から「横綱」を許され、その後この両横綱と後続の雷電為右衛門で寛政期の相撲黄金時代を築きました。
 因みに寛政三年六月、将軍徳川家斉観戦の上覧相撲が行われ、将軍家より弓を賜り、これを手に土俵上で舞ってみせたのが現在の弓取式の始めとされています。


 さて、最盛期の谷風は身長六尺二寸五分(189cm)体重四十三貫(161キロ)の堂々たる体格で相撲絵でも人気者でしたが、その成績も堂々たるもので江戸本場所における通算成績は、49場所254勝14敗16分16預5無勝負112休で、勝率9割4分9厘、優勝相当21回と『天下無敵』にふさわしい記録が残っています。
 しかし、相撲では無敵を誇った大横綱も病気には勝てず46歳の折、流行病により35連勝のまま現役死します。
 無類力士としてその名を残した後輩の雷電為右衛門が横綱になれなかったのは、なれなかったのではなく谷風の強さに遠慮したからだと言われる程の大横綱でした。