河村瑞賢は元和4年(1618)伊勢国(現三重県)の農家に生まれました。13歳のとき江戸に出て、はじめ車引きを業としていましたが、やがて幕府の土木工事の人夫頭になるなどして資産を増やし、材木商を営みました。
 明暦3年(1657)明暦の大火(振袖火事)の際には、木曽の材木を買占めて財をなし、その後も幕府や諸大名の土木建築を請負い莫大な資産を築きました。
 また、瑞賢は東廻り・西廻り航路の開拓者としてよく知られています。明暦の大火の後、江戸では米不足をきたしており、幕府は奥羽からの米移入を計画します。寛文10年(1670)幕府から陸奥の産米輸送の命を受けた瑞賢は、阿武隈川河口の荒浜から房総半島に向かい、相模国三崎・伊豆国下田に入り直接江戸に入る航路(東廻り航路)を開きました。さらに寛文12年、出羽酒田から日本海沿岸を回り、瀬戸内海・紀州沖・遠州灘を経て江戸に入る航路(西回り航路)を開き、輸送に要する時間と費用を大幅に短縮することに成功、海運の発展に尽力しました。
 「新川」は、現在の新川1丁目に流れていた運河で、万治3年(1660)瑞賢が諸国から船で江戸へ運ばれる物質の陸揚げの便宜を図るため開削したと伝えられるもので、新川一帯は灘五郷からの下り酒を扱う数多くの酒問屋が軒を連ね、河岸にたち並ぶ酒蔵の風景は、さし絵や浮世絵などにも描かれました。河村瑞賢はこの運河に面する一の橋の北詰に屋敷を構え、享保年間(1684〜1688)ころより移り住み、元禄12年(1699)この屋敷で没したといわれています。
 昭和23年(1948)「新川」は埋め立てられましたが、瑞賢の功績を後世に伝えるため、昭和28年新川史跡保存会によって「新川の碑」が建立されました。また平成15年中央区教育委員会により屋敷跡地に説明板が設置されました。