当宮の大鳥居をくぐると、左手に伊能忠敬翁の銅像が立っています。これは、忠敬が日本地図の測量を開始してより二百年の記念に建立されました。  
 忠敬は家業を隠居してから、深川黒江町(現・門前仲町一丁目)に居を構えて測量の研究に励み、測量の旅に出る時には、必ず当宮をお参りしていたそうです。
 
 伊能忠敬は延享二年(1745)上総国山辺郡小関村に、神保貞恒の次男として生まれました。宝暦十二年(1762)、18歳の時、下総国香取郡佐原村(現・香取市佐原)の伊能家に婿養子として入りました。
 当時、伊能家は家業が衰え危機的な状態でしたが、倹約を徹底すると共に商才を発揮し、本業以外にも薪問屋を江戸に設け、米穀取引の仲買等により10年ほどで経営を立て直しました。

 その後寛政六年(1794)家督を長男景敬に譲り隠居しました。
 その翌年、江戸に出た忠敬は、幕府天文方・高橋至時に師事し、測量・天文観測などを修めます。
 そして寛政十二年、56歳の時に幕府より測量の許可が下り、第一次測量が行われ、以後計10回(忠敬参加は9回)の測量旅行が実施されました。

 初めは私財を投じての測量でしたが、後に幕府にとって有益であると判断され、幕府の援助を受けることができるようになりました。
 当時の測量は歩数によって距離を測る方法で、一日10〜50キロに及び、併せて天文観測も行って、相互に比較しながら修正をするというもので、大変な苦労であったと思われます。

 文化十三年(1816)測量を終えましたが、地図の完成を待たずに文化十五年に亡くなりました。作業は弟子たちに引き継がれ、文政四年(1821)「大日本沿海輿地全図」が完成しました。
 現在、正本・副本ともに焼失してしまいましたが、近年複写が発見され、全容をつかめるようになりました。
 行楽の秋、地図を片手に出かけてみるのはいかがでしょうか。