落語『阿武松』のモデルともなったのが第六代横綱・阿武松緑之助です。
能登の国から相撲取りを目指すが、大飯ぐらいで破門になり、自殺をするところを宿の主人の計らいで再入門を果たし名横綱になる。というのが落語『阿武松』のあらすじで、全て事実と言う訳ではないようですが、大飯喰らいの逸話は本物と伝わっています。
入門時は小柳を名乗っていましたが、長州藩毛利家のお抱えになった時に、萩付近の名勝「阿武の松原」から「阿武松」と命名されました。
そして文政11年3月に小野川以来31年ぶりに横綱に昇進、最盛期の身長は五尺七寸(173p)、三十六貫(135kg)。取り口は慎重をきわめ「まった」が多いので有名でした。
文政13年の上覧相撲で、七代目横綱の稲妻雷五郎に再三「待った」をして、じらして勝った話は有名で、落語でも「ひと仕事をして戻ってみると、まだ仕切直しをしていた」という逸話があります。このため借金を催促されて待ってくれと頭を下げると、「阿武松でもあるまいし」と混ぜっ返すのが流行語になりました。
しかしながら、その出世は相撲史に例がないということで、「豊殿下(秀吉のこと)の卑賤より起りて、則闕の官に任ぜられ給ひしに似たり」というようにも例えられ、大変な人気を集め土俵入りの絵は飛ぶように売れました。また、川柳に「古の志賀にも負けぬ阿武松」と詠まれるなど、谷風、小野川、雷電の時代の後、ライバルの稲妻雷五郎と共に一時代を築いた名力士でした。
天保6年(1835)10月を最後に、45歳で引退、年寄をつとめ、嘉永4年(1851)12月61歳で逝去しました。
お墓は東京深川の玉泉院と金沢市の立像寺にそれぞれ建てられています。 |