現在、大河ドラマで『龍馬伝』が放送されており、幕末に興味を持った方も多いと思います。今回はその時代に活躍された人を紹介します。
 
佐久間象山砲術塾 (永代1‐14)
 佐久間象山は嘉永三年(1850)松代藩下屋敷(現永代一丁目)に砲術・兵学の塾を開きました。翌年には木挽町(現中央区銀座)に移住、塾も移転しました。門下生には勝海舟・吉田松陰・坂本龍馬など幕末・維新に活躍した人々を多数輩出しました。
 象山は文化八年(1811)信濃松代藩士・佐久間一学の長男として生まれました。天保四年(1833)江戸に出て佐藤一斎に朱子学を学びました。  
 天保十三年象山が仕える松代藩主真田幸貫が老中兼海防掛に就任すると海外事情を研究し、「海防八策」を献上、高い評価を得ました。これを契機に兵学・蘭学等を学び、洋学を身につけていきました。
 嘉永七年(1854)門弟の松陰が密航を企て失敗、象山も外国行きを勧めたとして連座し、松代に蟄居させられました。この間西洋研究に没頭し、洋学と儒学の兼修を主張、固定的攘夷論から現実的な和親開国論に転じていきました。
 蟄居が解けた後、元治元年(1864)幕命により上洛、一橋慶喜等要人に公武合体・開国論を説いたため、尊王攘夷派により暗殺されました。享年54歳。
 明治三年(1870)御家再興、同二十二年正四位を贈位されました。
 
伊東甲子太郎道場 (佐賀1‐3付近)
 新撰組参謀として有名な伊東甲子太郎は深川佐賀町に北辰一刀流の剣術道場を開いていました。
 甲子太郎は天保六年(1835)常陸国志筑郷目付・鈴木忠明の長男・大蔵として生まれました。父が閉門蟄居の後、脱藩したため家族も領内追放となり、母方の実家に身を寄せました。その後水戸に遊学、剣術・水戸学を学び勤皇思想に傾倒していきました。
 江戸に出て深川佐賀町の北辰一刀流伊東道場に入門、その力量が認められ、婿養子となり道場を引継ぎました。
 元治元年同門の藤堂平助の仲介で新撰組に加盟。同志と共に上洛、この上洛の年(甲子)に因んで甲子太郎と称しました。参謀兼文学師範に任じられ、容姿端麗・巧みな弁舌から、組内での人望を得ていきました。
 初期は尊王攘夷という点で結ばれていましたが、時代の変化の中で思想的矛盾・対立が発生していきました。その為、慶応三年(1867)薩摩藩の動向探索と御陵警護任務の拝名を名目に新撰組を離脱、同志と共に御陵衛士(高台寺党)を結成しました。その後、朝廷に建白書を提出、公家中心の新政府を作り、一和同心の下、開国による富国強兵策に近い考えを示していました。また、徳川家も政権に参加させようとするなど穏健な思想を持っていたようです。
 同年11月新撰組の罠にはまり七条油小路にて暗殺されました。享年33歳。
大正七年(1918)従五位を贈位され、昭和七年(1932)靖国神社に合祀されています。
 
勝小吉出生地 (福住2丁目付近)
 勝海舟の父親である勝小吉は享和二年(1802)旗本・男谷平蔵の三男・惟寅として深川油堀(現福住)の別宅にて生まれました。文化五年(1808)旗本・勝甚三郎の養子となりますが、喧嘩好きで学問を嫌い、たびたび問題を起こしていました。同十二年江戸を出奔、伊勢参りをしますが、帰宅後、旅の怪我が元で二年ほど外に出ず過ごしました。
 文政二年(1819)所帯を持ちますが、同五年再び江戸を出奔。甥に説得され帰宅しますが、父親に座敷牢に入れられ、3年間過ごしました。その間、同六年長男の麟太郎(後の海舟)が誕生しました。
 出牢後、就職活動をしますが役職を得ることはできず、処道具の売買、刀の目利きなどをして生活しました。その後、深川本所の顔役のような存在となり、生涯無役として市井に埋もれました。
 天保九年、37歳で隠居、夢酔と号し、自叙伝『夢酔独言』等を執筆、嘉永三年亡くなりました。享年49歳。

 夏祭りも近くなりましたが、今回紹介した人たちも、深川のお祭りを見物していたかもしれませんね。