紀伊國屋文左衛門は、江戸の元禄期に活躍した豪商です。生没年もはっきりせず、人物伝にも不明な点が多く半ば伝説的な人物ですが、この深川とは大変縁のある人です。

 寛文九年(1669)紀州湯浅(現和歌山県有田郡湯浅町)にて生まれたと言われています。二十代の頃、紀州みかんや塩鮭の商いにより富の礎を築きました。

 元禄年間には、江戸八丁堀に店を構え、永代一丁目(紀文稲荷神社近く)に屋敷を持っていました。五代将軍徳川綱吉の側用人柳沢吉保・勘定方の荻原重秀に取り入り、幕府の御用達商人となり、上野寛永寺根本中堂の造営で巨万の富を得、全盛をきわめました。

 日常生活でも金銭を惜しまず、吉原では奈良屋茂左衛門と派手に遊興を競うなど豪遊のエピソードが伝えられております。それらも資力の宣伝効果となり商売上の信用を高めていきました。
 また、遊興に耽るだけではなく、水利の悪い吉原に井戸を掘らせたり、深川へと続く永代橋を架けるなど公共施設に対しても私費を投じたと言われています。
 しかし、柳沢・荻原の引退により商売がふるわなくなり、さらに深川木場の火災により所有する材木を焼失したため材木商を廃業しました。一説には、幕府から十文銭の鋳造を請負いましたが、質が悪く通用が一年で停止されてしまった為、多大な損失被ったとも云われています。

 このように、散財や事業の失敗により落ちぶれた生活を送ったと伝えられていますが、富岡八幡宮の再建や金張の神輿の奉納(関東大震災にて消失)など潤沢な資産を持っていたとも云われています。
 晩年は、富岡八幡宮の一の鳥居のあたり(門前仲町一丁目)に居を構え、「千山」の俳号を名乗って、宝井其角ら多くの文化人と交友しました。
 享保十九年(1734)に亡くなったと言われています。成等院(三好一丁目)にお墓があり、昭和38年には紀伊国屋文左衛門の碑が墓前に建てられました。