平賀源内は江戸時代中期に活躍した人物で、本草学者・蘭学者・発明家・美術家・文芸家・鉱山師など多技多才な顔を持ち、日本のレオナルド・ダ・ビンチと呼ばれています。安永5年(1776)深川の自宅にて、かつて長崎で手に入れたエレキテルの修理に成功し、この実験が日本初の電気を使った実験と言われています。

 源内は、享保13年(1728)讃岐国寒川郡志度浦(現香川県さぬき市志度)に高松藩蔵番白石茂左衛門の子として生まれました。
 幼少の頃より利発で書物をよく読み、いろいろな事に興味をもったようです。評判が元で藩医に本草学や儒学を学ぶことができました。

 寛延元年(1748)父の死により家督を継ぎ、本姓である平賀に改めました。藩主松平頼恭(よりたか)にみいだされ宝暦2年(1752)頃長崎に遊学、本草学・蘭学・医学・油絵などを学びました。

 同4年、妹婿に家督を譲り江戸に出て、本草学者田村藍水(らんすい)に師事し、漢学を学ぶため林家にも入門しました。同7年、師の藍水とともに我が国初の物産会を湯島にて開催し回数を重ねるごとに、江戸においての知名度も上がりました。

 その評判が、高松藩主頼恭に届き再び召抱えられましたが、宝暦11年(1761)、学問に専念するため辞職願を提出し、他藩への仕官禁止という条件のもと許されました。

 同13年、物産会出品物の中から重要なものを選び解説した『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』を出版。この間、杉田玄白をはじめ多くの学者・文人と交友をもちました。やがて、田沼意次の知遇を得て二度目の長崎留学。陶器や織物、鉱山開発など活躍の場を広げていきました。
 また、作家としても数多くの滑稽本・劇作・狂歌を残し、夏の「土用丑の日」など広告の考案を手掛けました。

 このように多才ぶり発揮した源内ですが、安永8年(1779)誤って人を殺し投獄され、この年獄中にて亡くなりました。享年52歳。
 源内製造とされるエレキテル(重文)は現在でも千代田区の逓信総合博物館に収蔵されています。