〜 信仰を訪ねて 〜

無垢がもたらす陽の光 会陽(えよう)

 
 生まれたばかりの赤ちゃん。この世の中のことを何も知らない澄んだ瞳はまっすぐに世界を見つめ、儚げな小さなからだは力の限り精一杯生き、柔らかいこころは何物にも縛られず、自由。

 私たちは生きる中で様々なものに出会い、世界を学び、成長します。それは生きる為に必要なこと。一方で善悪、優劣、美醜といった考えを得、思いを抱く中で、生来の伸びやかさを徐々に失っていきます。

 私たちが赤ちゃんの輝きに強く惹かれるのは、失ったまっさらなこころとからだにもう一度戻りたいと願っているからではないでしょうか。
 私たちの祖先は、もう一度赤ちゃんの姿に戻るためにひとつの祭事を生み出しました。それが、裸祭りです。
 

ひしめき合う裸

 
天下の奇祭 会陽(えよう)

 日本中に裸祭りと称される祭りは多数ありますが、今回取り上げる会陽はその筆頭といえるでしょう。お寺の堂内に褌姿の男たちがひしめく熱気溢れる映像を、ご覧になったことがある方も多いのではないでしょうか。

 会陽の舞台は岡山県岡山市の古刹、西大寺(さいだいじ)。奈良時代の創建時より続く修正会(しゅしょうえ)という行事の終了時に行われます。

 修正会とは「正月に修される法会」。新年のはじめにその年の国家安泰、五穀豊穣、万民豊楽を祈念する仏事。仏前に護符を供え、寺の総力を挙げて14日間に亘り厳修されます。

 この貴重な護符を一対の樫の木片に巻きつけたものが、宝木(しんぎ)です。宝木を手にした者は一年間数々の幸福に恵まれるといわれ、古来民衆の熱望の的でした。
 そして修正会最終日、この宝木を奪い合う祭り、それが会陽です。

 

西大寺本堂

 
宝木争奪戦!

 夜10時。西大寺本堂は内外の明かりが一斉に消され、浄暗と呼べる闇に包まれます。堂内に会した男衆は、実に9千人。広い本堂もさすがに人で溢れかえり、「その時」を固唾を飲んで待ち構えます。

 宝木投下!

 堂内正面上部の木製の窓から、ひしめく群衆に向かって投げられた一対の宝木。このたった二本の宝木を9千人の男たちが求め、奪い合います。宝木を手にして境内を抜けた者が、「福男」の栄誉を得ることが出来るのです。

 裸の男たちが繰り広げる勇壮かつ異様な争奪戦は、わずか10分ほどで終わります。けれどもこの瞬間を目にするために、例年3万人を超える観衆が集まるのです。



 会陽に参加をする者は、褌一丁で臨まなければなりません。「裸」と呼ばれる彼らの姿こそが、会陽を天下の奇祭たらしめています。

 裸たちは本堂脇の垢離取場(こりとりば)で冷水をかぶり身を清め、堂内を熱気で満たします。そこには身分の上下も貧富の差も、善悪、優劣、美醜の区別すらありません。からだもこころも丸裸にして、ただ一心に幸いを求め、生きるだけ。

 赤子に戻ったその無垢な姿が放つかけがえのない輝きこそ、会陽が、そして裸祭りが私たちを惹き付けてやまない理由でしょう。

 会陽とは、備前平野に春を呼ぶ祭り。まっさらなこころとからだは、生命が芽吹く春の陽をもたらします。