松平定信(1758〜1829)は陸奥国白河藩主(現福島県)を務め、更に老中に就任して寛政の改革を行ったことで知られています。
 深川との縁も深い人物で、江東区白河の霊巌寺に墓地があり、白河の地名も定信に由来したものです。

 定信は造園家としても著名で江戸築地の浴恩園(よくおんえん)・大塚の六園(りくえん)・領地白河の三郭四園(さんかくしえん)・南湖公園(なんここうえん)といった庭園を造り、それぞれ別の趣向をこらしていました。「海荘(はまやしき)」は定信が深川入船町に造った庭園で、他の四園に比べて広くはありませんが、それぞれの趣向が取り入れられていました。

 園内には東西二つの池があり、池を掘削した土で山を築き「松月斎」「青圭閣」という休息所を建て、正門脇には家臣の溜まりも設けられていました。築地の浴恩園から通船の便が良く、「探香丸」という御座船で訪れていました。
 定信は花木を好み、梨園や芍薬の花畑を作ったり、桜や躑躅、松、楓など様々な植物を植えました。特に普賢象(ふげんぞう)という遅咲きの桜を愛し、世間の桜が散る頃に花盛りを迎える桜を楽しんだそうです。
 現在、この庭園の名残を伝える跡はありませんが、残された絵図に当時を偲ぶことができます。