この度の大震災の中でも津波は千年に一度という大きさと範囲の広さで、信じられぬほどの被害をもたらしました。
 日頃豊かな恵みを与えてくれるおだやかな自然。ところがひとたびそれが牙をむけば凄まじい威力を見せつけます。

 江戸時代、深川洲崎は江戸湾にうち臨む風光明媚な海岸で、海の幸に恵まれ、料理茶屋なども多く、初日の出や月見、潮干狩りに舟遊びと四季折々に多くの人々で賑うところでした。しかし寛政3年(1791)9月4日、折からの嵐で前日から降り続いた大雨と満潮が重なり、高波が押し寄せて一帯の人家も住民も海中に呑みこまれてしまったのです。
 幕府はこうしたことに備え、以前から波除石垣土手(現平久小に遺構あり)を造成していたのですが、想定外の大波に防ぎきることが出来ませんでした。 

 これにより、幕府は東西285間・南北30間余・総坪数5467坪余(現木場六丁目洲崎神社〜牡丹三丁目平久橋あたり)を買い上げて空地とし、以後、家屋の建築を禁止、空地東西の両端それぞれに惨禍を刻んだ石碑を建て「波除碑」と称して後世への戒めとしました。

 二基の碑は、関東大震災や戦災により破損し、旧状を失いましたが、昭和33年津波警告の碑が新しく隣に設けられ、改めてその由来が記されました。
 悲惨な災害を防ぐためには自身はもちろん歴史が経験した災害を忘れないこと。そうしたこともこの碑は語っています。

江戸時代の洲崎海岸 (左下は洲崎神社)