樺太・蝦夷の探検で知られる間宮林蔵は、深川蛤町(門前仲町)に住んでいたと伝えられています。
 当宮に銅像のある伊能忠敬との係わりも深く、忠敬の『大日本沿海輿地全図』には林蔵の測量が生かされていると言われています。

 林蔵は安永9年(1780)常陸国筑波郡上平柳村(茨城県つくばみらい市)の農民の子として生まれました(安永4年説もあり)。
 子供の頃より算術の才があったと言われ、江戸に出て地理学者・村上島之丞に師事して規矩(きく)術(三角測量)を学びました。寛政12年(1800)蝦夷地御用掛雇となり、同年、函館にて忠敬と出会います。

 文化3年(1806)択捉を測量、同5年、松田伝十郎と樺太に派遣され、翌年海峡を渡り黒竜江下流地域を探索、樺太が島であることを確認しました。
 オランダ商館医師・シーボルトはこの調査を評価し、著書の『日本』にてタタール海峡の最狭部を「間宮の瀬戸」と記載しました。

 文政5年(1822)測量を終え江戸にもどり、以後各地の調査などの隠密としての活動を行っており、天保7年(1836)には石見国浜田での密貿易の実態を掴みました。
 なお文政11年(1828)、幕府天文方の高橋景保が国禁であった日本地図をシーボルトに贈って、両者処罰されたシーボルト事件は、景保と確執があったとされる間宮が、シーボルトの景保宛書簡を幕府に提出した事が発端とされています。

 天保15年(1844)江戸にて亡くなり、墓地は平野二丁目の本立院墓地と出身地にある専称寺の二ヶ所あります。