昭和天皇の東京大空襲被災地御巡幸

 
 昭和20年3月18日、昭和天皇は東京大空襲の被災地を御巡幸なされ、途中富岡八幡宮に於いて被災状況の御説明を受けられました。次に昭和天皇の空襲被災地御巡幸について当時の新聞記事等に基づいてまとめてみます。

 昭和20年3月10日未明、約3百機の米軍爆撃機B29により、東京下町地区は焦土と化し、富岡八幡宮も社殿、社務所等大半が炎上。御神体は幸い焼け残った境内末社、永昌五社稲荷神社に遷されて災を免れました。

 それから8日後の3月18日午前9時、陸軍御軍装を召された昭和天皇は、松平恒雄宮内大臣、木戸幸一内大臣、藤田尚徳侍従長、蓮沼侍従式官長、大金宮内省総務局長、小倉侍従、加藤行幸主務官等わずかなお供と皇居をご出発、9時10分富岡八幡宮に御到着なされました。

八幡宮参道を歩まれる陛下

 

 焼け崩れた鳥居をくぐられ、わずかに残った石畳を歩まれた陛下をお迎えしたのは大達茂雄内務大臣、坂警視総監、西尾都長官、熊谷防空総本部次長と5人の記者団、7人の写真映画班員のみで、異例の少人数による奉迎でした。大達内相の説明を御受けになられた陛下からは「被害工場の復旧状況はどうなっているか、被害工員の処置はいきとどいているか」と御尋ねがあり、さらに「救護措置については万全を期すよう」と御言葉がございました。

八幡宮境内(現手水舎のあたり)にて説明をお受けになる陛下

 
 その後9時25分に八幡宮を御立ちになられた陛下は永代通りを東へ進まれ、東陽公園を折れて四ッ目通りに入り、小名木橋に御料車を停められ、橋上から約5分間被災地を一望されました。そして錦糸町、押上、駒形橋、田原町、稲荷町、上野駅前、広小路、湯島切通坂、昌平橋、神田淡路町、小川町、神田橋と進み、午前10時無事に皇居へ戻られました。

 藤田尚徳侍従長の著述によれば陛下は湯島を過ぎたころ「大正12年の関東大震災の後にも、馬で市中を巡ったが、今回の方がはるかに無惨だ。あの頃は焼け跡といっても、大きな建物が少なかったせいだろうが、それほどむごたらしく感じなかったが、今度はビルの焼け跡などが多くて一段と胸が痛む。侍従長、これで東京も焦土になったね」と仰られたとのことです。

 また元侍従の木下道雄氏は自著のなかで終戦時に陛下がお詠みになられた次の御製(ぎょせい)(和歌)を紹介しています。
   身はいかになるとも
     いくさとどめけり
       ただたふれゆく民をおもひて
 陛下御自身はどのようになってもいいから、戦争を終結したいという御意で、昭和20年8月14日、陛下の御聖断によりポツダム宣言を受諾、翌日陛下は親しく全国民に終戦の詔書を放送されました。

 終戦から3年後の昭和23年8月15日、深川佐賀町の神輿は数百人の氏子に守られて皇居二重橋前まで渡御、皇居を拝して当時の富岡宣永宮司により深川の復興状況が奏上されました。

 現在、富岡八幡宮境内には昭和天皇の御野立所碑(おのだちしょひ)と先の御製を刻んだ御製碑が建立されています。
 

  

御野立所碑と御製碑