両陛下にお会いして

 
 このたび天皇皇后両陛下には東京大空襲を経験した3名の皆さんと御懇談になられました。そこで次に皆さんより所感を頂戴いたしましたのでご紹介いたします。
 

御懇談された3名の皆さん(右より早川さん、石井さん、宍戸さん)

 

早川幸男(江東区永代在住・空襲時16歳)

 天皇皇后両陛下と、テーブル一つ隔てただけの至近距離でお会いできるなど、思いもよりませんでした。
 山ア区長さんの御司会で私たち3人それぞれの戦災体験談を熱心にお聞きいただけましたことは、大変有難く、誠に光栄なことでありました。
 また大変失礼かもしれませんが、お二人のお人柄からくると思われますが、御対談の中で、深い親近感を感じさせていただき、大きな懐に抱かれているようにも覚えたのであります。
 お話したいことの、ほんの僅かしかお伝えできませんでしたが、火を避けた水の中で手を取り合っていた幼子達について「どうなりましたか」とのご質問があり、「みんな駄目でした」とお答えしたとき、一瞬お言葉を詰まらせられ、悲しそうな眼をお見せになられたのが、私にとって印象深く残っております。
  両陛下には予定時間を侍従の方に告げられても、もっとお話をお聞きになりたいような素振りを感じましたが、「このようなお話は、多くの人に語り継いでいって下さい」とのお言葉を残され、名残り惜しそうに席を立たれ、部屋を後にされたのであります。
 祭礼の神輿連合渡御をご観覧後、お帰りにあたり、親しくお見送りさせていただきましたが、陛下から再度「是非多くの方々に伝えていってください」とのお言葉があり、皇后様には、身近にお寄りになり「お体を大切にお過ごしください」との有難いお言葉を戴き、この上ない喜びと共に、残り少ない人生の糧として、心を新たにさせて戴いたのであります。
 B29の巨体が、深照灯で見え隠れする夜空の下で、赤々と燃え、火の粉飛び交う水の中、私の両手、両腕に掴まり、冷たさに震え、助けを求めながら、精魂尽き果て、力なく、水の中に死に行く幼子達の悲しそうで虚ろな目は、今も私の眼の底に焼き付いています。
 あれから67年、間もなく84歳になる。進みゆく現代の中、若い人達の邪魔にならぬよう、どうしたら腕の中で死んでいった幼子達の分まで、少しでも生きることができるか、両陛下のお言葉を噛みしめているところであります。

  
 
 

石井清子(江東区富岡在住・空襲時12歳)

 このたびは天皇皇后両陛下と御懇談する機会をいただき、身に余る光栄と深く感謝しております。
 東京大空襲から67年の間、ひと時も忘れることの出来ない当時の様子を、次のようにご報告申し上げました。両陛下には穏やかに優しく私たちの話をお聞き戴き、数々のご質問を賜りました。
 昭和20年3月9日の夜、私たちは焼夷弾が落ちて火柱を上げるなか、八幡さまを通り抜けすぐ裏の数矢小学校へと逃げ込みました。あたりは一面火の海で突風が巻き起こり、人も荷物も吹き上げられました。川には死体がいっぱい浮いていました。次の朝、火が弱まり学校の外に出て目にしたのは、10万人を超す死んだ人たちでした。
 あのときの悲惨な体験を通して、私の心の中にそれからの人生のなかでどんなことにも耐えられるという強い気持ちが刻みこまれた思いでした。
 富岡八幡宮の境内にある私の家の前に昭和天皇がお詠みになられたお歌の碑が建っています。

  身はいかになるともいくさとどめけり
           ただたふれゆく民をおもひて

 この昭和天皇の優しいお心を反映することもなく8月15日まで戦争が続いてしまいました。もしもこのお歌のとおり早くに終戦を迎えていたなら、広島も長崎も沖縄も何百万人の人々の命が救われていたのではないかと私は心から残念に思いますと両陛下に申し上げました。
 陛下には「この体験を後世に語り伝えていってくださいね」と何回も繰り返しお話になられました。今日の平和な日々が、あの死んでいった多くの人々の犠牲の上にあるのだと改めて感じました。
 戦災にも匹敵する大災害を受けた東日本大震災復興祈願を念じて行われた、今年の富岡八幡宮例大祭、連合渡御と合わせて、戦後67年の有意義な8月となりました。

 
 
 

宍戸芳子(江東区住吉在住・空襲時20歳)

 戦後67年となる平成24年夏、また終戦の日がやってまいりました。戦前戦中戦後を生きて来た私が今日あるのは3月10日の東京大空襲を生き延びたからです。当時20歳の私は戦地に赴いた兄、疎開している母と弟妹達を除き身障者の姉、警防団の父、中1の妹、私の4人は戦火の中に暮らしていました。
 3月9日の深夜、空襲警報がなると「すぐ逃げろ」と父の声に歩けぬ姉と着替え少々を大きな乳母車に載せ3人で猿江の家を飛び出しました。町会で決められた東川校に向かわず、叔母の家がある葛西を頼りに扇橋へと急ぎました。扇橋まで来ると既に業火と人の波で前にはとても進めません。気が付いたときは小名木川橋の上、頭上にはB29の落とせし焼夷弾が雨あられの様に降る中、とても助からぬと覚悟し、その時姉の乳母車にも火が付き、危うく姉を引出し、川へ乳母車を投げ捨ててどうしたらと考え、「私を置いて逃げて」と泣き叫ぶ姉を「死ぬ時は一緒だよ」と力づけました。歩けぬ姉を見殺しには出来るでしょうか。橋の下に小さな交番を見つけ、中は一杯でと断られましたが10歳位の少女のお蔭で窓を少し開けてもらい、姉を妹と二人で押し上げ、その後私もかけ上り飛び込みました。肉親の絆の深さを感じた事は有りませんでした。あの時、姉を見殺しにしたら一生後悔の思いに苦しんだと思います。今日の幸せは神様よりのご褒美と思い感謝の毎日です。父も無事に焼け跡にて会うことが出来、夢ではないかと手を取り大泣きしました。
 この奇跡の様な話に皇后美智子様は「大変な思いをなさったのですね」とお優しくねぎらいの言葉をかけてくださり、また天皇陛下におかせられては「長く語り継いで下さい」と励まし下さいました。54基もの盛大な神輿渡御の行われる深川には悲しい戦火があったことを残された人生にて語り継ぎたいと思いました。江東区の高齢者の作品展に私は短歌を出品し始めて金賞を頂きました。
 富岡八幡宮様の並々ならぬお心遣い感謝で一杯です。
 永らえて伝える役目我にあり、3月10日の修羅場生き延び。

 

江東区と東京大空襲

 

 昭和19年(1944)7月、サイパン島の日本軍守備隊が玉砕し、同島は米軍のB29爆撃機の出撃基地となって、以後日本は空襲にさらされることになりました。11月以降、東京も百回以上の空襲を受けましたが、特に昭和20年3月10日の空襲は「東京大空襲」と呼ばれ、死者・行方不明者が10万人以上に及びました。
この深川地区も大変な被害に遭い、当宮も本殿や社務所など大半が炎上、七渡神社周辺の弁天池に飛び込んで助かった人もいたそうです。

 3月9日、曇り空の東京には北北西の強風が吹き始め、夜につれて一層激しさを増しました。この日の気象条件は一度火災が起こればたちまち大火災となるであろう最悪な状態で、そのなか米軍による史上空前の無差別爆撃が行われました。
10日午前0時8分、先行の一番機が深川区に侵入、第一弾を木場二丁目に投下、次々に周辺に投下して忽ち火災は広がりました。以後3百機のB29による空襲が約2時間30分にわたって行われました。

 この空襲により、深川区(現江東区西部)の77%・城東区(現江東区の東部)の56%が焼失。運河で碁盤の目のように区切られている深川区は、逃げ場も限られ炎に囲まれると行き場を失って、一度に焼死することが多く、まだ寒い時期でもあったため、川に飛び込んだ人の多くが溺死・凍死することとなりました。
その後も空襲は続き、江東区域は、昭和16年時点で8万7千戸余りあった人家が終戦時にはわずか5千戸余りを残すのみとなり、被災率90%以上にのぼる都内最大の被害を受けました。

 この為、江東区の各地には現在戦災者の慰霊・供養、平和の祈りを込めた碑や地蔵尊等が河川沿いや寺院の境内を中心に多く建てられており、更に北砂には「東京大空襲・戦災資料センター」もあります。

 戦争の悲惨さは体験した人にしか分からないものだと思います。生き残った人々が建て、守り続けている慰霊の碑を伝えていくことが大切です。