明治政府は、鎖国時代の海運業の遅れをかんがみ、明治八年(一八七五)十一月三菱汽船会社の岩崎彌太郎に多額の補助金を与え、海員養成の学校(私立三菱商船学校)をつくらせました。
 最初は、学校といっても大川に係留されていた船・成妙丸を校舎に代用していました。
 明治十四年(一八八一)霊岸島に校舎を建てて移り、同十五年には農商務省の管轄となり東京商船学校と改称しました。
 その後、明治丸を譲渡され本格的な海員養成をはじめ、同三五年校舎を越中島に移転、大正十四年(一九二五)には東京高等商船学校となりました。
 戦後、校舎はGHQに接収されましたが、昭和三一年(一九五六)返還され、同三二年東京商船大学と改称しました。現在、東京水産大学と統合し、東京海洋大学となっています。
東京高等商船学校は、東京大空襲のさい無数の焼夷弾が落とされましたが、教官学生が必死に消火に努め、焼失を免れました。その甲斐あって、明治丸をはじめ、多くの建築物が残り、文化財に指定されています。

<明治丸>
 明治六年(一八七三)英国で灯台監視船として建造されました。当時としては優秀船であったので、通常の業務の外、同九年の明治天皇の東北巡幸など、日本近代史の多くの出来事に関わりました。
 明治二十年(一八八七)以後は本来の業務である灯台巡視船としての活動を続け、同二九年商船学校へ譲渡され、改装、以後係留練習帆船となり、昭和五三年(一九七八)国の重要文化財として指定されました。