第8回 古都奈良の文化財 -後編-
 
天平の都・奈良には、「青丹よし(あをによし)」という枕詞が使われますが、これは、壮麗な宮殿の丹塗りの柱と寺院の瓦の色に由来するとも言われています。1300年前の奈良は、鮮やかな色彩の大都市だったのでしょう。その、青丹の名残の世界遺産を、もう少したどってみます。
 
 元興寺は、飛鳥時代の豪族・蘇我氏が六世紀末に現在の奈良県明日香村に創建した日本最初の寺院・法興寺が、奈良遷都に伴い移転してきたものです。こぢんまりとした本堂・極楽院の屋根には奈良時代の瓦が今も一部に残り、「行基瓦」と呼ばれています。行基は当時民衆の支持を集めた僧侶で、大仏建立の際には彼の呼びかけに応えた大勢の信者が造営に奉仕しました。今でも奈良では「行基さん」と親しまれ、近鉄奈良駅前には銅像が建っています。元興寺界隈は、江戸時代に奈良奉行所が置かれるなど、行政・商業の中心として栄えた地域で、今は奈良町と呼ばれ、古い商家・町家の建物が数多く残っています。

 
薬師寺唐招提寺は、これまでの奈良市中心部から西へ離れた西ノ京と呼ばれるところに、南北に並んで建っています。北側の薬師寺は天武・持統両天皇ゆかりの寺院で、これもやはり最初は飛鳥に建てられ、後に奈良へ移転したものです。現在の伽藍の正確な建立時期は判りませんが、持統天皇二年(688)に大規模な法要が催された記録が残っているので、その頃には大半が完成していたものと思われます。白鳳仏と呼ばれる形式の金銅製薬師如来三尊像のほか、建立当初から立つ東塔と、往時の工法を用いて昭和に再建された西塔、一対の五重塔で有名です。

 
唐招提寺は中国唐代の高僧・鑑真和上が開いた寺院です。和上は日本へ仏教を広めたいという熱意から、危険な航海の末に視力を失ってまで来日した人物です。この逸話に取材した井上靖の小説『天平の甍』を読まれた方もおいででしょう。この寺院の講堂は、平城宮の東朝集殿(官吏が朝礼・政務を行った建物)を移築したもので、一部に後世の改装が施されていますが、現在唯一の奈良時代の宮殿建築として大変貴重です。また、敷地は天武天皇の第十皇子・新田部親王の邸宅が提供されており、境内の経蔵は親王邸の倉庫をそのまま使用していると考えられています。

 奈良市中心部から西へ向かう大通り・登大路の北側には、国の特別史跡・平城宮跡が広がっています。長い時代を経るうちに宮跡は忘れられ、農地にされていましたが、明治時代、史学者・関野貞によって大極殿の基壇が発見され、大正11年に国史跡の指定を受けました。現在は公園として整備されており、市民の憩いの場になっています。公園内には出土品や宮殿の再現模型を展示する資料館、遺構を復元した朱雀門や東院庭園があるほか、奈良遷都千三百年記念事業の一環として大極殿の復元が進められ、天平の息吹を感じられる場所となっています。

 前後編でご紹介した、この「古都奈良の文化財」は、日本文化の古里のような場所といえるのではないでしょうか。
 

「世界遺産」とは、1972年の国連教育科学文化機構(ユネスコ)総会で採択された「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」(通称:世界遺産条約)に基づき、遺跡・景観・自然など、人類が共有すべき普遍的な価値を持つと認められたもののこと。世界各地に、現在700件を超える物件が登録されています。