干鰯場とは、主として房総方面から、水運によって運ばれた干鰯を陸揚げして売りさばく、集荷と取引の場所です。深川は昔から水運の便がよく四ヶ所の干鰯場が設けられました。 寛永年間、銚子方面において干鰯の生産がさかんとなり、寛永14年(1637)に江戸に積み出しました。やがて承応初年(1652)には北新堀町・南茅場町(現中央区)に干鰯問屋が誕生しました。 この頃は荷揚場がないので、荷物は船に積みおき、見本の見せ俵だけで取引をしていました。しかし、荷揚場がなく不自由なことから元禄8年(1695)深川西町横町(高橋三丁目)に揚場を築きましたが、ここでは遠くて不便であったので、元禄13年小名木川沿いの深川海辺新田(元白河小学校付近)に『銚子場』とよばれる揚場を設けました。 そして元禄9年西永代町(佐賀二丁目)に『永代場』、宝永4年(1707)深川小松町(佐賀一丁目)に『元場』、享保15年(1730)和倉町(深川二丁目)に『江川場』を設け、明治に至るまで機能していました。 この『江川場』には和倉稲荷神社というお社あり肥料商より信仰されていました。この神社は明治中期、富岡八幡宮の境内の永昌稲荷に合祀され永昌五社稲荷神社となっています。合祀されてからも信仰が篤く、今でも肥料業者からなる「永昌五社稲荷奉賛会」による参拝が毎年行われています。 |