第10回世界最大級の銀鉱山・石見銀山
 
 神話の里・島根県の西部に広がる石見銀山は、日本最大の銀鉱山です。良質の銀を大量に産出し、65年前に閉山されたこの銀山は、我が国の経済史に大きな位置を占めています。
 
 石見銀山は島根県大田市大森・同市仁摩町・温泉津町一帯に広がる鉱山で、中世に開発が始まりました。室町時代の大永6年(1526)、博多商人・神谷寿貞が海上から山が光るのを見て、鉱脈を発見したと伝わります。神谷寿貞は中国渡来の最新製錬技術「灰
吹法」を日本国内で初めて成功させ、これを契機により効率的に銀が産出されるようになりました。
 石見銀山は当時、石見・長門の守護大名であった大内氏が所有し、良質の銀を背景に強力な勢力を築きましたが、近隣の小笠原氏・尼子氏もこれを狙い、激しい争奪戦が繰り広げられました。大内氏が毛利元就によって滅ぼされた後、永禄5年(1562)に毛利氏が銀山を手に入れ、「中国の覇者」への道が開かれたのです。
 石見銀山が開発された時期は、日本経済が爆発的な発展をみせた時代と重なります。行商人による全国規模の流通が始まり、貨幣経済も浸透した室町時代、通貨は宋(中国)の銅銭を輸入して使用していましたが、石見産の銀は銀本位制の西日本で基本通貨として広く流通しました。また、この頃から始まったオランダ・スペイン・イギリスとの通商を支える資金源でもありました。当時の石見銀山の銀産出量は年間平均38トンと推定され、世界全体の三分の一に達するものだったそうです。
 江戸時代に入ると徳川幕府は石見銀山を天領とし、初代銀山奉行に大久保長安を任命。長安は銀山開発に敏腕を振るい、この時期に産出量は頂点に達しています。併せて銅の採掘も行われましたが、元禄以降、産出量は下降線をたどり、幕末には地下水で被害が出るほど深く採掘しなければなりませんでした。明治になって民間へ払い下げられた後、産出の少なさや災害によって度々休山となり、昭和18年の水害による坑道水没をもって完全閉山となっています。
 一般的に、鉱山の開発は環境破壊を伴うものです。しかし、石見銀山は鉱脈の走る山地を崩すことなく、山地の内部に蜘蛛の巣のように坑道をめぐらすことで採掘が進められました。また、周辺の森林は十分に保全されており、伐採した分は植林が施されてきました。このように、500年前から環境に配慮した開発を行っていたことがユネスコ委員の反響を呼び、当初困難といわれていた世界遺産への登録を果たしたのです。
 21世紀を迎えて環境への意識がますます高まる中、日本古来の「自然との共存共栄」の姿勢が世界に評価されたことは、大きな意味があるのではないでしょうか。現代に生きる私達も、先人の培ってきた知恵と自然への感謝の念を受け継ぎ、素晴らしい文化と風土を守りたいものです。
 

「世界遺産」とは、1972年の国連教育科学文化機構(ユネスコ)総会で採択された「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」(通称:世界遺産条約)に基づき、遺跡・景観・自然など、人類が共有すべき普遍的な価値を持つと認められたもののこと。世界各地に、現在700件を超える物件が登録されています。