清澄通り沿い、深川老人福祉センターの一角に、江戸時代の人気読本『南総里見八犬伝』全106冊を積み重ねた碑が建っています。これはこの作品の著者である曲亭馬琴生誕の地を記念して建てられたものです。

 曲亭馬琴(本名・瀧澤興邦のちに解)は、明和四年(1767)江戸深川の旗本松平鍋五郎の用人、滝沢興義の三男として生まれました。 9歳の時父親が亡くなり、翌年に長兄より家督を譲り受け松平家に仕えましたが、主人がひどい癇癪持ちでその扱いに耐えかね、14歳の時、障子に「木がらしに思ひたちけり神の旅」と書きつけて松平家を出て放蕩生活に入りました。やがて24歳の時、山東京伝の門をたたき弟子となり、戯作者として出発しました。

 その後、寛政五年(1793)版元である蔦屋重三郎の世話で飯田町の履物商・会田家の未亡人お百の婿となりますが、家業には目もくれず文筆業に打ち込み通俗的な黄表紙や合巻などの草双紙を多く書きました。

 そんな馬琴にとって一大転機となるのが享和二年(1802)の上方旅行でした。歴史ある上方の文化に触れた意味は大きく、旅行中に大阪の書肆文金堂との約束で執筆した半紙本読本の初作『復讐月氷奇縁』を刊行、江戸・大阪で好評を博し、読本作家として進むべき道を見いだしました。

 やがて文化四年(1807)、武将・源為朝の活躍を描いた長編史伝物の先駆となる『椿説弓張月』を発刊。続いて今でも人気を博する代表作『南総里見八犬伝』を発表しました。これは、全98巻・106冊という大作で、実に28年もの歳月をかけて天保十三年(1842)に完結しました。

 この間、長男・宗伯の死や馬琴自身完成を前に失明するという困難に遭いながらも長男の妻お路に口述筆記をしてもらい完成に至りました。
 そして嘉永元年(1848)11月「世の中のやくをのがれてもとのままかへすはあめとつちの人形」を辞世として82歳の生涯を終えました。