◎男山◎ |
石清水八幡宮は、木津・宇治・桂三川の合流点である山崎地峡にそびえる男山に鎮座しています。この地は古くから交通の要地であるとともに、羽柴秀吉と明智光秀の合戦地としても知られるように政治上の拠点でもありました。また京都の北東(鬼門)にある比叡山延暦寺と対峙して、京都の西南(裏鬼門)に位置することから信仰上の拠点としても欠かせない地となっています。
標高142メートルの男山には鬱蒼とした緑が生い茂り、神気漂う霊験新たかな山として多くの参拝者を引き付けます。 |
|
◎八幡さま◎ |
石清水八幡宮の御祭神は応神天皇(第15代)、比淘蜷_、神功皇后の三柱で、この三座の神々を総称して八幡三所大神と申し上げています。八幡神とは応神天皇の御霊を神様としてお祀りする際のお名前で、大分県の宇佐神宮が発祥です。応神天皇は四世紀頃の天皇さまで、仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)と神功皇后(じんぐうこうごう)の皇子としてお生まれになられ漢字、養蚕、機織等さまざまな文化と技術を取り入れて、わが国の発展につくされました。
また八幡様は神道と仏教の思想が結びついた神仏習合という考えを形成する先駆けとなった神様としても知られています。平安時代に編纂された延喜式神明帳の宇佐神宮の項には「八幡大菩薩宇佐宮」と記され、菩薩号を授けられた八幡大神がすでに定着しています。
なお御神徳は文化・産業・武門等多岐に及びますが、特に石清水八幡宮では勝負必勝の神・厄除開運の神として年間を通して多くの参拝者を迎えています。 |
|
|
|
|
◎創祀◎ |
貞観元年(859)、宇佐宮(現在の宇佐神宮)で修行していた奈良大安寺の僧行教が八幡大神より「吾れ都近き男山の峰に移座して国家を鎮護せん」とのお告げ受け、その翌年に清和天皇が男山に六宇の宝殿を造営して八幡大神をお祀りしたのが石清水八幡宮の創祀です。
その後、天慶二年(979)の平将門・藤原純友の乱が八幡大神の御神意によって平定されて以来、国家鎮護の社として崇敬を受け、さらには伊勢神宮に次ぐ第二の宗廟(そうびょう)(皇室の祖先を祀る所)としても仰がれました。また武家においても清和源氏の源頼信が石清水八幡宮を信仰して源氏の氏神としたため、以後源氏の流れを組む足利、徳川に至るまで厚く信仰されます。
なお現在の御社殿は徳川家光によって造営されたものですが、このたび平成の大修造を終えていにしえの美しさを甦らせました。 |
|
◎石清水祭◎ |
年間の祭典のなかで最も重儀とされているのが9月15日の石清水祭で、賀茂祭(上・下賀茂神社)春日祭(春日大社)とともに三勅祭のひとつに数えられています。勅祭とは天皇のお使いである勅使が直々に陛下からのお供え物(幣帛)を供えに参向されるお祭りのことで、勅祭が斎行される神社は全国で16社しかありません。
祭典は15日深夜、御本殿にて御鳳輦(ごほうれん)三基に三座の神霊をお遷しになり約500人のお供と共に下山。勅使以下の奉迎を受けて頓宮(とんぐう)に入られ、早朝徐々に空が明ける頃、奉幣祭が斎行されます。その後放生川にて魚鳥を放つ放生会(ほうじょうえ)が行われ、夕刻山上へと還られます。放生会とは生物を自然に放して生きとし生ける者の平安と幸福を願う祭儀で貞観五年(863)に始められ、それが石清水祭の起源とされています。
松明と提灯の灯りだけで進む御鳳輦、静寂な中での奉幣祭など古式にのっとった祭典は我々を平安絵巻の世界に誘います。 |
|
|