三代横綱 丸山権太左衛門
 
 「色黒く、中肥りにて、力強く、見越入道のごとき者」といわれ、頭のてっぺんに丸い瘤があったことから「丸山」を四股名としたと伝えられるのが三代横綱・丸山権太左衛門です。

  丸山(本名 芳賀銀太夫)は陸前国、今の宮城県に生まれ藩主に付いて江戸に出て力士を志します。
  伊達藩出身の力士が江戸相撲の中心であった当事、丸山も仙台出身の名力士・七ツ森折右衛門に入門。身長六尺五寸(約197cm)、体重四十三貫(約166kg)の恵まれた体格で、技は知らないが、ただ両手で突っ張るだけで相手は堪えられなかったといわれるほどの怪力でした。
 その怪力ぶりは五斗俵に筆を差し込み、俵を持ち上げて「いろは」を書いて見せたり、太い桶竹をねじり割ったので、驚いた商家の旦那がそれを貰いうけ「丸山筒」と名付けて家宝の花筒としたという逸話が伝わっています。
 反面、深川の雪中庵に俳諧を学び、「巴重」と号し、
    ひと握りいざ参らせん年の豆
を持ち句として手形の脇に添えたという風流な一面も持ち合わせていました。

 持ち前の怪力で天下無双と呼ばれるようになった丸山は、寛延二年(1749)8月、師匠と同道して熊本に赴き、吉田司家より故実門人の免許を受けます。(これを以て横綱という見方が丸山を三代横綱とする所以です)
 そして、同年10月には熊本藩抱えの大関阿蘇ケ嶽とともに玉名、大牟田、柳川と興行を行い大盛況、やがて長崎に乗り込みますがそこで発病し、手厚い治療の甲斐なく37歳で他界しました。
 お墓は長崎市本河内町にあり地元の人々によって供養され、郷里の中津山松寿院境内には遺髪、遺品を納めている「丸山堂」が作られて、墓碑が安置されています。
 また平成10年には出身地である宮城県登米市の「道の駅米山」に銅像が建てられ訪れる人々を威風堂々と出迎えています。